昭和47年1月10日 朝の御理解    (末永信太郎)    №47-004

御理解第7節
 天地金乃神は昔からある神ぞ、途中から出来た神でなし。天地ははやることもなし。はやることなければ、終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせぬでも、おかげはやってある。



 信心はせんでも、おかげはやってある。神様が下さってあるおかげをおかげと分からせて頂くということは、なかなか難しいことです。おかげを下さってあるそのおかげを、おかげと実感させて頂くということは。そこで、まあ、信心とは神様が限りなく恵んで下さってある、限りなく下さるおかげ。そのおかげを、おかげと実感出けるために、信心のけいこをしておると言うても良いのです。信心して、改めてこれを願ったり、これを頼んだりして頂くとのではなくて。ね。
 神様が、信心なあ、もうあってもなかっても下さってあるところのおかげ。そのおかげをおかげと実感出けるけいこ。それが、信心だと言うても良いのです。ね。それを、おかげをおかげと分からせて頂くことのために、いわゆる、天地日月の心になり、と。天地日月の心になる、と。天地は流行ることもなし、流行ることなければ終わりもなし。もう、いつも同じだ、と。神様に、いわば御発動を頂くといったようなことを申します。神様がおかげを下さろうということになったら、もう、それこそ、あれよあれよという間におかげ頂くんだ、と。神様が御発動まします。ね。
 だから、本当を言うたら、神様が御発動をましますのではなくて、神様はいつも、発動しておられるのである。発動というのは、発動機の発動ですね。ね。それを、私どもが受け切っていないだけのこと。天地の中にある働きというもの。その働きというものは、いわゆる天地が生きてござるということです。ね。
 もう、ですから天地はそれこそ枯れたこともなからなければ、死んだこともない。もう、天地は生きどおし、活動し通しなんです。昨日ですかね、土居の久富勇さんの奥さんが、(お夢?)を頂かれたと言う。村内に大坪ひろとさんという人がおってある。その方が、大きな発動機を一生懸命こうやって叩いておられるところ。ね。まあ、言うなら、動ききらんでおるところの発動機が、こう叩いたら動き出すんじゃないか、と。ね。叩いたぐらいで発動ものでは、その、止まっとった発動機が起こるということではない。
 まあ、たまにそんなことがありますね。私どもの、これは発動機と違うけど、テレビが映らん。こう、スイッチ入れても映らん。したら、してこの頃、あれはポンポン叩きますとですね、パッと映るんですよ。ね。それが、こう、ちらちらするでしょう。そすと、こうこうやって叩くと、今度は元に戻ったりするようなことがあるですね。まあ、そういうことが、ね、ないじゃない。けれども、それは正常じゃない。
 だから、ね、流行ることもなければ終わりもないというほどしの働きを、止まることを知らないと言うか。ね。それが、天地の働きなんです。いわゆる、発動し続けてござる。その発動し続けてござる、いわゆる、働きを働きと感じとらせて頂くということのために、信心のけいこをしておる。ね。
 天地日月の心になること肝要。そこで、天地日月の心になることによって、はじめて神様のおかげを知ることが出ける。おかげが頂けるというのじゃないですね。神様、天地の働きを知ることが出ける。それが、おかげの、また受け物にもなるわけ。昨日、日曜度にお参りをしてきます、福岡から秋永嘉朗さんの奥さんが子供連れで、必ず日曜に参ってまいります。
 長女の雅代さんが、今、何年生でしょうか。3年生ぐらいでしょうか、4年生でしょうか。それこそ、真剣な(あま?)持ちで御取次を願うんですよ。というのも、その、学校である、その友達がね、まあ、どっちがいじめよるとか知らんけれども、必ず喧嘩をする友達がある。だから、もう、その喧嘩をしたくない。もう、今日はもう喧嘩するまいと思うけれども、向こうがどうか、そう言うたりしたりするから、必ず喧嘩になる。そこで、それが苦になるとみえて、その、どうぞ、喧嘩をせんで済むようにおかげを頂かせて下さい、と言うのである。
 人間の心の中にね、争おうと、いっちょ今日は誰かと喧嘩してやろうというようなのは、そんなにおるもんじゃないです。今日も出来るならば、平穏無事。円満な、ね、円い心で一日を過ごしたい、と。それが、何かの調子に、相手の出方が悪かったとか、ね、物の言い様も悪かったと言うては、もう、こっちがかっかして来る訳なんです。だいたいは、私どもは、ね、それこそ天地日月の心でありたいのである。ね。
 まん丸くありたい。これはもう、ひとしお、人間全てがそれを願っておると、私は思うです。今日は誰をいじめてやろうとか。ね、誰と喧嘩しようとかちゅう風に思うもんななかろう、と思うです。私は、昨日、その、お初穂の整理がもう終わっておる頃下がりまして。たまたま、その雅代さんがお初穂をお供えして、お願いをしておる事がですね、あれはよっぽど苦になったんだろう。
 私がちょうど、その、もう少しばっかりなっとったのを、ちょっと手伝わせてもらったんです。その雅代さんがお包みをしておる、お供えをしておるお初穂を開いてびっくりしたんです、実は。というのは、まあ、佐田さんがお正月にお年玉でも頂いただろう、その、全部でもなかろうかと思うくらいの金額が入れてあったの、お初穂の中に。いくらいくら、もう、それこそ全額をお供えしてでも、まあ、これをお願いしたい。まだ、小学校3年生ですか、4年生の女の子がですよ。ね。そのように、円満でありたいということは、切なんです。子供でもそうなんです。
 今日は学校に行って、誰々さんといっちょ喧嘩しようとは思うて行きゃせん。今日はひとつ、喧嘩せんで済むような、円満で行きたいと心に願っておる。けれども、お互いに顔を見ると、どうか言いたくなったり、したくなったりして、争い、いわゆる喧嘩もすると、こう言う。
 それで、そのことを、まあ、お母さんに相談したんでしょうね。なら、今日お参りして、そのことを御取次を頂いて、お願いしなさいと言われたのでしょう。で、もちろん、お母さんもお願いを別に、お初穂を奉らせてもろうて願わせてもらうけれども、子供は子供で、ね、言うなら、自分の持っておるお小遣いの全部であろうと思われるような金額を、例えばはたいででもです、神様におすがりをしようとしておる。
 円満でありたい。ね。ですから、本来、お互いの心の中に、天地日月の心というものをです、その、頂いてもおるし、また、それを欠げないようにと思うておるということ。ね。神様のおかげを受けなければならん。と言うて、そんなら、その神様のおかげが、ね、それこそ(地団駄?)踏むようにして願う。(地団太)踏むようにしてすがる。ね。言うならば、発動機の止まった発動機を叩いてでも動かそうとする。
 昨日、夜の御祈念を2番目の息子であります光昭が奉仕しておりました。昨日は皆、先生方がおりませんで、どっか行っておりました。それで、まあ、けっきょく当番じゃなかったけれども、まあ、光昭がおかげを受けたわけです。私は、もう御祈念がはじまってから、ここへ着かせて頂いたんですけども。まあ、御祈念半ばに参りました。そして、まあ、御祈念終わってから、当番の人がお話をすることになってますから、お話を聞かせて頂きながら、本当に微笑ましいというか、有り難いと言うか。
 なるほど、そういう心になりたいと思うてなれるもんじゃないけれども、そうなれておるということが、有り難いなあ、と思うたんです。というのは、もう、その、まるしょうの合掌から合宿。それから、青年会の新年会なんか、もう、ずうっと引き続き・・・ (A面の途中切れ。B面に続く)

 ・・・大払いをあげるのも、大払いが間違っておる。まあ、それで、まあ、どうやらこうやら、御祈念を終わって、それでもやっぱり、普通の時間に、ちょうど八時からですか、八時半頃、御祈念終わってから下がらせて頂いて、皆に聞いてもらってる話なんです。今日はどうもすいませんでした、と。本当に御祈念がしだごだで。ね。大払いは間違うし、そして、その間に眠ってしまったりして。ね。
 けれども、僕は思いました、と。神様にそのことをお詫びさせて頂いておりましたら、ね、僕がこの頃、もう毎日毎日、ご用で一生懸命勤めさせて頂いて、これは、まあ、大着かも知れません。大着な考え方かも知れませんけれども、くたくた疲れておることは、神様もご承知。眠って目が覚めた時に、神様から、ね、お疲れ様とこう、ご挨拶を受けたような気がした、という話をしておりました。
 私は、こういう心が天地日月の心だと思うですね。もう、これならおかげを受ける、こういう心。それが、例えば、その、大着でとかね、その、だらしがないというのではなくて、ね、その受け方がです、ね、なるほど御祈念中に居眠りをしたり。居眠りじゃない、本当に寝てしまってるんです。ね。さあ、それから、寝とぼりかえって目を覚まして大払いをあげりゃ、大払いはもう、後になったり先になったりして間違ってる。ね。はあ、神様すいませんと言うて、その、まあ、お詫びをする心。
 ところが、最近、ここ4~5日は、もう、本当にくたくたに疲れておることを神様もご承知。ね。だから、神様が眠らせて下さったといったような頂き方。いや、神様がいわゆる、お疲れさんと、こう言うてござるような気が致しました、と。私は、そういう頂き方こそがね、おかげを受ける心だと思うですね。おかげを受けると言うが、受けておるおかげをおかげと、もう、実感してるわけなんです。
 自分を責めるといったようなこともない。ね。いわゆる、心の呵責というものもない。けれども、ちょっと照れくさい。後ろで信者さん達は、その大払いが間違ったり、または、眠ったりしておりますから、どうも、とんちんかんちんな御祈念をしておる。ね。だから、そのことは照れくさいけれどもです、ね。
 そのことも、神様のおかげを受けておるという、いや、神様からご苦労さんとか、ね、お疲れさんと、こう言われておるような心持ちでご神前を下がられるということは有り難い。ね。それは、本来、私どもの心の中に天地日月の心というものがあるのです。ね。それを、自分の心から、いわば、おかげのあるもなきも和賀心と仰る。その自分の心でおかげを、いわば受けておるおかげを締め出すような格好になっておるようなことはないだろうか、と。ね。
 昨日、特別奉修委員の御祈念をさせて頂いて。ご神前に出らせて頂きましたら、お芝居に(めいぼくせんだいはき)というのがあります。いわゆる、(かだ?せんだいはき?)と書いてある。いわゆる、あの、(まさおかちゅうぎのだん?)ですね、自分の子供が犠牲になって、その、(やしおり?)殺されるという場面。ね。
 さあ、皆のおる前では、それこそ顔色ひとつ変えない(まさおか)が自分一人になった時に、女の分にかえり、もう、それこそ、母親としての悲しみを、いわゆる愁嘆場ですわね。
 そこの中で言うこと、台詞の中にね、武士の種に生まれたは、幸か不孝か、幸か因果かというところがある。死ぬるを忠義と言うことは、いつの世からの慣わしぞ、と。ね。武士の種に生まれたということが、ね、幸か因果か分からない。まさおかの場合は、侍の種に生まれたばかりに、こういう難儀なことになった、とこういうわけです。ね。信心を例えばさせて頂く者。信心をさせて頂いておるから、難儀を感ずるというような事もないだろうか。信心しておるばっかりに、まあ、ぐうぐう言うて堪えんならんといったようなことはないだろうか。ね。信心しておるから、辛抱せんならん。信心しとるから、言うことも言われんといったようなことでは、信心が邪魔になっておる。言わんで済むことが、例えば行わんで済むことが、ね、有り難いと分からしてもらう信心にならなければ、天地日月の心とは言えない。ね。
 この辺のところがですね、本当もう、信心しとるばっかり、ぐうぐうち堪えとるとちゅうような人がありましょう。信心しとらんなら、言うことだけは言うけれども、というようなことでは、信心しておることが、幸か因果かということになります。だから、そういう信心ではおかげにならん。ね。
 例えば、居眠りしておっても、大払いは間違っても、ね、神様にご苦労さんと言われておるような心。そういう心を、天地日月の心と。信心しておるから、難儀を感ずるといったようなことでは、天地日月の心に悖る。流行ることもなからなければ、終わりもないというほどしに、神様はおかげの下さること。天地が生きて、生きて、生き抜いて、生き働いてござる。その働きを受け止めることが出来ん。ね。
 信心しておって、どうしてこんな難儀なことが、といったような事を感じなければならない。そこで、私どもがです、例えば、こうやって寒修行が、もう、今日で七日間ですかね。ね。いわゆる、そういう信心修行が大事なのである。眠いけれども、辛抱してお参りをして来る。寒いけれども、寒い中に飛び出して来るという、そういう修行をさせてもらう。それも、なら、どういうことかと言うと、神様のおかげをおかげと分からせてもらい、天地日月の心を本来頂いておる、その天地日月の心がいつもフルに出せたり使えたりするようなおかげを頂くことのために、修行しておるのである。ね。
 私は昨日、その、いわゆる、(まさおかちゅうぎのだん)のところを頂いてです、これはどういう意味か分からんけれどもと言うて、次の話をさせて頂いた。昨日、朝の御祈念の後に合楽の田中さんがお届けをされました。田中さんも、だいたい、もう、私もよくご存知ておりますけども、おばあちゃまが熱心な御信者さんでした。ですから、もう、小さい時からおばあちゃんに連れられては、お参りをし、いわば、親子孫と信心が続いておる家庭に育てられて、合楽に縁について来ておられる。
 そして、たまたま、合楽に教会が、まあ、出けたからという訳でもないですけれども、まあ、椛目の時に御神縁を頂かれたのが、合楽の御神縁のはじまりであった。何十年間、信心をしておられたわけである。しかも、もう、信心、金光様の信心が有り難いということもよく分かっておられるから、止めろと言うても、止められないほどしに、もう、信心は子供の時から染み込んどるのである。
 そういう信心をしておられるのにも関わらずです、椛目に初めてご縁を頂かれた時に、一番はじめ頂いたのが、田中さん覚えておられるかどうか知らんけど、こうやって、放棄を、高放棄を持って履きござる。けれども、それがね、地についていないというところであった。自分は信心しよるつもりである。つもりだけれども、一つもきれいにはなりよらんというようなのが、貴女の信心ですよ、と。これから、一つ椛目にご縁を頂いたのですから、一つ地についた信心をなさいませというのが、田中さんが初めてご縁を頂かれた時の御理解でした。本当に先生、言われてみれば言われておる。
 本当にここで御理解を頂けば、ほれは、本心の玉を磨け、日々改まりが第一と、改まることに、磨くことに、いわば清めるということ、限りなく美しゅうならせて頂くことに精進皆さんがなさっておられる。そういうことに戻っておる自分に気付かせて頂いて、いわゆる、心がいわゆる、信心は本心の玉を磨くものとか、改まるというようなことになって。いわゆる、信心が地についてきたという訳である。それから、椛目合楽を通して、まあ、なら、5年余りでも合楽にご縁を頂いておられる。
 先生、昨日は久留米の佐田さんところの共励会に、初めて野口さんのお導きを頂いてからお参りさせて頂きましたが。もう、本当に信心の進んでおられる方達ばっかりのお話を頂いておりますと、本当に有り難い。ね。もう、とりわけ熊谷さん辺りの発表を聞かせて頂いておりますと、もう、どういう端からでも、神様のおかげを吸収し、しかも七十いくつになるお婆さんが、ああいう意欲を持って信心を分からせてもらおう、分からせてもらおうと意欲しておられる。
 例えば、テレビを見ながらでも、ラジオを聞きながらでも、例えば、そのバスに乗っておろうが、家で(うどん?)を頂いておられようが、ね、神様のおかげを吸収しようと努力しておられる話を聞かせて頂いて、大変感動したという話をしておられる。私は思うのですけれども、どんぐりの背くらべと、こう申しますけれどね。何でも同じこと、けいこするなら、自分よりも少しぐらい手の届く、とてもあげな人達の真似は出けんというようなことを言わずにです、少しでも信心の程度の高い人の話を聞く。または、お付き合いをさせてもらうことによって、信心は成長すると思うですね。
 昨日も、ある方がお参りをしてきて、もう、大変に霊徳に触れて行かれる。毎日、一家をあげて熱心に参ってくる。けれども、私はとにかく親先生、金光様、そして私と、もう、他のことは、もう見向きもしません。もう、神様一途で進みたいと言うて、お願いがあった。だから、そげな貴女が過去においてなさった信心はそうかも知れんけれども、合楽にご縁を頂いたら、そげなこっじゃいけんよ、と。
 それじゃ、私、神様、神様、私、あなたと、こうおかげは行くかも知れんけれども、これでは、信心のね、本当のプラスにならん、横が繋がらなければ。ね。例えば、ちょうど美登里会の、昨日は特別奉修委員にお参りし合わせておられて、一緒に御祈念を頂かれた後のお届けでした。
 だから、例えば、自分の信心の、例えばご用とか、高めて行くとかといったような意味においてはです、やはり、信者同士の横のつながりも大事である。そして、横縦の繋がりがあって、初めてプラスになるのだというようなことを、まあ、申しましたことです。ね。
 まあ、田中さんのことに戻りますけれども、ね、田中さんがそういうようなところから、いわば、信心の、地についた信心がだんだん出けられるようになって、最近、もう何と言うですか。まあ、大変な心境の進み方だと思う、とても当時から。そして、これはもう、田中さんのもの。これは、田中さんの信心と言うて、私がいつもお話をいたしております。ね。
 去年、もう一昨年になります。幹三郎のあの病気で入院しておる時でございました。ね、昨日もそのことをお届け、そのことと言うが、あの、初夢にお知らせを頂かれたのが、幹三郎ちゃんの叔母役、お守役を勤めよ、という意味のお夢を頂かれた。だから、田中さん、貴女が去年一昨年、幹三郎が病気をしておる時に、それこそ一生懸命に幹三郎君のために修行なさった。
 お家で、例えば炊事のご用をさせて頂いておろうが、ね、他所のお手伝いにやらせて頂いておろうが。ね、このことが、幹三郎さんが病気全快のおかげを頂かれるための修行だと思うたら、そのことが嬉しゅうなり、有り難うなったと言うておられた。私は幹三郎さんのお守り役ということは、このことを自分の心から忘れるな。これは、もう田中さん、あなたのもの。あなたの、もう、専売特許と言うても良いくらい。
 日々がそういうことになったら、どういうことになるだろう。様々な難儀に直面しましても、どんな煩わしい問題がありましても、その一つひとつを実意丁寧を持って、これが願い、ね、お互い大きな神願を持たないはずはありませんが、その神願が叶うて行くことのための修行だと思うたら、それが煩わしゅうとも苦しゅうとも思わずに、有り難うなるという心こそ、天地日月の心なのであります。ね。
 もちろん、これは、田中さんの専売特許であっても、なら、お互いがそれを、また頂けないはずはありません。そういう頂き方なんです。ね。年の種に生まれたということが、幸か因果かでもなからなければ、信心させて頂いておるからしるしい思いをせにゃならんとか。信心しておるけん、言いたいことも言えないというようなことではなくて。ね。そのことが、神様の大きな願いなら願いが成就することのために、精進しておる。それが修行だと思うたら、それが嬉しゅうて有り難いという答えが出る。そういう信心を、私は天地日月の心になっておる姿であると思うのです。
 ね、なかなか完璧ということは出けません。けれどもです、ね、これは、そのことの修行だと思うたら、出けんことが出来るのです。例えば、ちょうど寒修行がはじまる頃でしたか。田主丸の小野先生が、まあ、ご長男が(ラサール)に行っとります。まあ、今年はそういう意味で、まあ、(せろぎわ?)の年でございますから、まあ、親として、一生懸命勉強せろ、と。朝早起きをして、こうして、その、眠らん、眠る時間もなかろうけれども、お前だけに苦労はさせんて。お父さんも明日から行って、朝参りをさせてもらうから、一つ、あんたも朝参りしよるつもりで勉強せろと言うて、その、ここで親子で話しておられるわけです。
 毎日、なるほど日参して来るけれども、もう、自分の都合の良い時に参って来るというのが、小野先生の信心であった。それがどうですか、ね、子供のことに心願が立てられた時に、さあ、その眠うしてたまらないでしょうけども、ちゃっとお参りになっておられるでしょうが。ね。
 心願を立てるとです、その修行が出来る。しかも、その修行がだんだん有り難うなって来るという答えが出なければ、今日、私が言う天地日月の心にはならんのです。もう、子供のためにこげな修行せにゃん、こげな順ないことなか、とはじめは例えば思うておっても、お参りさせて頂いておって、ただ自分の都合のよか時だけ参るというのじゃない。朝参りがこんなにも有り難いものかと、有り難い答えが出てこなければ、天地日月の心にならん。ね。日常生活の上においても然りである。ね。
 なるほど、これは煩わしい、面倒臭い問題だと思うけれど、これが心願が成就することのための修行と思うたらと取り組ませて頂くところから、田中さんじゃないですけれども、嬉しゅうて有り難うてという、いわば天地日月の本来あるその心が発揮できたことになるのです。ね。
 私は金光様の信心の一番素晴らしいところは、ここだと思う。天地日月の心になること肝要なり。ね。お互いが、ね、秋永雅代ちゃんじゃないですけれども、ね、子供ながらにも、やはり円満な心を願っておるのである、求めておるのである。それでも、顔を見ると喧嘩をいつもすると言うので、御取次を頂いて、それこそあるかなし、自分の、なら、持っておるお小遣いの全てをです、お供えしてからでも、ね、天地日月の心になろう、まあ、大げさに言うとですね、天地日月の心になることを願いとしておるという信心。
 私はね、金光様の御信心の願いは、そこに焦点を置かれなきゃ駄目だと思う。ね。そこに、例えば、おかげがおかげとして生きてくるのである。天地の親神様のお働きというのは、もう、発動のあり遠しにあっておる。天地が生きてござる。そこで、私どもの真に有り難いなあ、という心がすぐにみかげのはじめと仰るようにです。どのような場合でも、有り難いという心は生きた心である。
 いかに天地が生きてござると言うても、どうぞお願いします、お願いしますと言うて(さし止めた?)ところで、枯れた木や枯れた心で天地にいわば向かって叫んでも、ね、神様とてもおかげのやりようがない。枯れた木を、ね、花を咲かせようとなさる訳にはいかんのである。ね。枝を伸ばして下さるわけにもいかんのである。私ども生きた心で、ね、生きた心で神様お願いしますというところに、ね、伸ばしても下さるだろう、花も咲かせて下さるだろう、実らせても下さるだろうということになるのです。ね。私どもが天地日月の心になるということは、今日は、まあね、違った角度から頂きましたですね。どうぞ。